2008年4月28日月曜日

とほほ記事…読売新聞島根版より

第1回大会山陰代表争う大社と鳥取西6日対戦
夏の高校野球90回記念先輩の熱戦しのび

 全国高校野球選手権大会が今年、90回目を迎えるのを記念し、1915年(大正4年)の第1回大会で山陰代表の座を争った、大社高(旧制杵築中、出雲市)と鳥取西高(旧制鳥取中、鳥取市)が5月6日に鳥取県の岩美町営野球場で野球部の親善試合を行う。試合をする現役ナインは、山陰の高校野球史を開いた先輩たちの熱戦をしのび、夏の夢舞台での再会を誓う。
 日本海テレビ(鳥取市)が両校野球部の交流会を企画したのがきっかけ。杵築中と鳥取中は15年8月15日、第1回全国中等学校野球大会の山陰代表決定戦に出場。2年前に鳥取県米子市であった山陰大会で鳥取側応援団が島根側応援団に暴力をふるった影響で、決定戦は全国大会会場の大阪・豊中球場で全国大会の3日前に開催された。
 試合は8回まで2―2と白熱したが、9回に鳥取中が3点を奪って勝利。試合後、杵築中の千家剛麿主将(後の出雲大社教管長)が鳥取中の鹿田一郎主将に「今までは敵同士だったが、これからは同じ山陰の味方だから、どうか残って奮闘してくれ」と激励した。
 この試合のスコアは現在も鳥取西高が保管。また、大社高野球部史には、試合の朝、杵築中ナインが武運長久を願って5月の端午の節句についたもちを食べ、腹をこわしながらも奮闘したエピソードが残る。
 鳥取中は全国大会開幕戦で山陽代表の広島中(現広島国泰寺高)を14―7で破って勝利校第1号になり、これまでに計22回夏の全国大会に出場した。杵築中も第3回大会で初出場を果たし、夏の全国大会は計8回出場。85年の第67回大会には同時出場もしている。
 親善試合には、両校OBらのほか、鹿田主将の長男の幸雄さん(76)や、千家主将のおいで、出雲大社教管長の達彦さん(85)も応援に駆けつける予定。
 板垣悟史・大社高野球部長は「現役選手は両校が最初の全国大会出場を争ったことを知らない。交流会でOBの話を聞き、先輩が築いた歴史を未来につなげる自覚を持たせたい」と話し、三好徹・鳥取西高野球部長は「遠く大阪で出場権を争った先輩の苦労と夢に思いをはせ、野球への情熱を高める機会にしたい」と対戦を楽しみにしている。
(2008年4月24日 読売新聞)

****************************
 実はこの記事は4日前に見つけたのですが、まだパソコンの問題が解決していなくて投稿できなかったので、今頃になって書いています。
 さて、記事自体はいい話なんですが、紫色の箇所が不謹慎ながら、おかしくて笑ってしまいました。
そんな大事な試合直前に、ついてから3か月も経った餅を食べるなんて!自殺行為じゃないですか。そんな時代ってまだ冷蔵庫もなかったわけで、傷んでいる可能性は高かったのでは?しかも真夏にですよ!その餅が大社で作られていたものなら、大阪まで運んだりもしてるわけですよね。それほどまでにして、武運長久を願って端午の節句についたモチを食べることって普通だったのでしょうか?つきたての頃に祈りをこめて食べるものじゃないの?じゃなきゃ、その時代の保存方法ではおそらく普通、この杵築中ナインのように、腹をこわしますよね。
 そもそも、その餅は、誰が誰のためについたのでしょう?本当に杵築中関係者が杵築中野球部ナインのために、はじめから決勝戦当日の朝のために作り、保存されていたのでしょうか?もともとは暴力事件がなければもっと早く食べるはずだったでしょうし。
 それとも、実は決勝戦の行われた大阪で、誰かが差し入れしたとか?
 いずれにしても、出雲大社のおひざ元の高校生たちとその指導者たちの信心深さ、純粋さに敬服いたします。一後輩としては、母校のとほほさに脱力しつつではありますが(^_^;)
 大社高野球部には、他にもこういった「余計なことをしたばっかりに」ひどい目にあった話がありました。昭和50年春の島根県決勝戦の前日に遅くまで特訓して、本番で疲労から実力が発揮できなかったのです。 こういうのって選手は被害者ですよね。指導者の責任が大きいのでは?
 ところで、大社高校野球部と言えば、一番覚えているのは、昭和51年に甲子園に出場したのですが、習志野高校と1回戦で対戦し、確か8回裏までは7-0で勝っていたのに、8回裏で一気に7点か8点入れられて、結局7-8で負けてしまった試合です。私は当時中一だったと思うのですが、テレビを見ていて、習志野があれよあれよという間に点を追加しているのに対し、大社ナインはなすすべもないかのようで、8回の裏が永遠に終わらないのではと、心配しました。そして大社が負けた瞬間、悲鳴を上げたのを覚えています。
 その後、いい指導者に恵まれていた昭和58年春の甲子園でベスト8に入りました。池田高校の水野とも戦ったんですよ。このときの監督は新田監督。後に浜田高校の黄金期?も作っておられたと記憶しています。あのソフトバンクの和田毅選手は近くにあった大社高校ではなく、遠方の浜田高校に行き、その監督の下、甲子園でチームがベスト8に入り、そのおかげで早稲田の推薦入試に合格し、今があるわけです。
 今の大社高校は学力レベルは下がってしまったけど、野球の方はどうなんでしょう。母校なのに、今一つ関心がなくて申し訳ないです。こんな風にとほほ記事にしちゃってますし。在校生ではプロ棋士の里見香奈さんがいるし、卒業生では竹内まりやや江角マキコが活躍してるしで、けっこう自慢の母校ではあるのですけどね。ほんと、不謹慎な卒業生で申し訳ないです。

2 件のコメント:

ジョディ さんのコメント...

実は昨日の夜コメントしたんですが・・・ちゃんと送れてなかったんですね~?もし二重投稿になってしまっていたらごめんなさい。

パソコン騒動で大変でしたね。私は機械オンチで昔からほとんど夫まかせ、何もかも自分ひとりで処理できちゃうyochanに頭が下がる思いですわ。おニューの使い心地もよさそうですね♪

記事のお餅、当時は天然の冷蔵庫のような所で保存してたんですかね? そういえば私が幼少の頃は、暮れに沢山ついた餅が余ると、水につけて保存してたことあるんです(田舎です)。でもそんな一ヶ月ももたなかったと思いますが。御餅にあたらなかったら島根のチームは勝ってたかも知れないんですね。
90年経っての親善試合ですかぁ、なんだかいい話。

習志野高、銚子商高はちょうど私の高校時代で、夏の甲子園で千葉県勢が連覇して黄金時代でした。まさしくyochanが観戦(テレビ?)したその頃ですね。あの頃、東海大相模も実力・人気たるやすごかったですね(原辰則は大学までが最強でしたかね~)。
池田高も強かった! なんだか懐かしい話になってしまいますねえ。

母校から有名人が出てると、やっぱり自慢したくなっちゃいますよね。それに、この二人はポイント高いですもの! 以前にも書いたけど、静かで控えめな中にある芯の強さ、美しさ、透明感、これは島根という土地で育まれたものだからかな?と感じるんです。

yochan さんのコメント...

ジョディさん、
パソコン騒動で、せっかくいただいていたコメントの公開がずいぶん遅れてしまい、すみませんでした。
ジョディさんちはご主人もしっかりなさっていて、いいですね。うちの夫はそういうのが苦手なようです。携帯も断固としてメール機能を使いません。老眼になってからいろいろ新しいことを覚えるのがめんどくさいからかな。説明書を読んだりがあるので。機械に限らず組立家具なんかもほとんど私が組み立てます。夫にやらせても、途中で癇癪を起こすのが目に見えているからです(T_T)それで、必要に迫られたとき、私が動く羽目になってしまうんですよね。まあ、結果的に自分でいろいろ覚えられて良かったですけどね。

そうそう。昭和50年代初め頃って習志野高、銚子商高など千葉勢は凄かったですよね。東海大相模の人気も、すごかったですよね。原選手と桜田淳子が付き合ってるとか、いないとか週刊誌で騒がれたりして、原辰徳はもうアイドルでしたよね。

記事のとほほ部分なんですが、私一昨日たまたま図書館に用事があったので、「大社高校野球部史」を閲覧し、該当部分をコピーしました。それによると、お餅の前に、大阪という都会に来て、赤い色のイチゴ、黄色いレモンをかけた氷水を見て!。暑い盛りでもあり、これはうまいとパクついたのだそうです。そこに来て、「カビだらけの餅」を8月15日の試合当日の朝に「食べさせられた」ということだったそうです。そして、試合では病人続出。試合の最中中堅手がいなくて捜すと、トイレから返事が…。とか、捕手も下痢がひどくて動けなくなったとか。さぞや無念だったことでしょう。ちなみに、以来、試合前の選手の衛生管理については厳しく言われるようになったのだそうです。

島根について、ジョディさんのように思ってくださる方がいらして、感激です。
今、映画「砂時計」が公開されていますが、島根のシーンがいろいろ出てくるようです。この連休に見てみようかな。でも、結局「名探偵コナン」の方を見てしまいそう。