2008年9月19日金曜日

遅ればせながら「崖の上のポニョ」観てきました。

 昨日・今日と夜の仕事はお休みです。夜のクラスに来る生徒たちが宿泊研修や修学旅行のため来れないからです。
 しかも、昨日は娘も宿泊研修、息子は私の実家の近くで職場体験をするので実家に宿泊、ということで、夜は全くフリーとなったのでした。
 こんな時は、やっぱり映画を見に行かなくちゃ、ということでネット予約して見に行きました。
一番見たかった「WANTED」は20日からだったので、仕方なく、夕方の仕事が終わってからすぐに見れる7時20分開始の「~ポニョ」を見ることにしました。
 さて、この映画館、10スクリーンあるのですが、さすがにこの田舎では平日の夜は客がいません。係員以外の人は見かけませんでした。もしかして全部合わせても客は私一人だったかも知れません。私は怖くなり、映画はやめてショッピングモールで買い物だけして帰りたくなったのですが、予約チケットのため、見ないと1800円が水の泡になるのです。
 そして、私はたった一人、暗くて、500席はありそうなホールで「ポニョ」が始まるのを待ちました。怖かったです。いろんな意味で…(・・;)。開始時間が来て、毎度おなじみの地元の結婚式場のCMが暗闇の中で妙に明るく、大音量で始まりました。
 冬の新作映画の予告編も終わり、やっと「ポニョ」が始まりました。
 
 内容は、
 海に棲むさかなの子ポニョが、人間の宗介と一緒に生きたいと我儘をつらぬき通す物語。同時に、5歳の宗介が約束を守りぬく物語でもある。アンデルセンの「人魚姫」を今日の日本に舞台を移し、キリスト教色を払拭して、幼い子供達の愛と冒険を描く。
海辺の小さな町と崖の上の一軒家。少ない登場人物。いきもののような海。魔法が平然と姿を現す世界。誰もが意識下深くに持つ内なる海と、波立つ外なる海洋が通じあう。
そのために、空間をデフォルメし、絵柄を大胆にデフォルメして、海を背景ではなく主要な登場人物としてアニメートする。少年と少女、愛と責任、海と生命、これ等初源に属するものをためらわずに描いて、神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである  という宮崎 駿氏の言葉通りでした。
 
 実は上記の宮崎氏の言葉は今この記事を書きながら初めて読んだし、もともと予備知識もなく観たので、絵柄がデフォルメされていて絵本風なのには、軽いショックを受けました。私は宮崎作品のリアルな風景が気に入っているので、この時点で、ちょっとがっかりしました。
 そして、宗介の母リサの声と台詞回しがわざとらしくて、またがっかり。でも一番がっかりしたのが、主人公の宗介が、母親のことを「リサ」と呼び捨てにしていることです。最初、身寄りのない子をリサが預かっているのだと思っていましたが、話が進むうちに親子だとわかり、幻滅しました。 キャラ的に心惹かれたのは哀愁漂わせてるフジモトくらい。
 (フジモト)
 でも、グランマンマーレが出てきたあたりから、俄然いい感じになってきました。フジモトの正体もわかってくるに従い、ますますそのキャラに共感しました。 そして、魔法で大きくした宗介のおもちゃの船を動かす仕組みに「ほぉお~。」と感心しました。
 話の筋は、予備知識もなく観たけど、まあ、ファンタジーということで、理解はできましたし、宮崎氏のテーマも確かに感じ取ることができました。でも、今までの宮崎作品で感じたこみ上げてくるような感動が湧き上がってこないのです。 宮崎作品ということで期待しすぎたからでしょうか。
 なんだか、幼稚園の頃に絵本を読んでもらっていた感覚に近いです。ただ、強い感動はないけど、なにか暖かい物が胸の中に広がっているのは確かです。
 この感覚をもっと掘り下げてみると…
 この映画の中で圧倒的な存在感のある海。海は、荒れ狂う恐ろしい存在でもあるけれど、生命の源、母なる存在。まさにグランマンマーレのイメージそのもの。この映画を見た後の感覚は、羊水の中に帰ったような、何もかも母親に委ねてしまった子供になったような感覚です。   (グランマンマーレ)
 まさに、神経症と不安の時代にいる我々に必要な感覚かもしれません。強い感動でテンションあげるだけでは神経が擦り切れる時もあるでしょう。時には意識を、存在そのものを許されている母の胎内に回帰させるとか、または思い思いに泳ぐ無数の生き物に交じって広い海で泳ぐ自分をイメージしてみるのもいいかも知れませんね。

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